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変貌 さいたま
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         5. 大宮操車場跡地
  
          さいたま新都心は大宮操車場跡地に創られた。大宮操車場は、吹田(大阪府)、新鶴見(神奈川県)とともに三大操車場のひと
          つだった。しかし1984年(昭和59年)2月その機能を廃止し、2000年(平成12年)4月にさいたま新都心として生まれ変わった。
          フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に1974年(昭和49年)に大宮操車場付近を撮影した空中写真がある。大宮操車場
          が機能を廃止する10年前だ。

          (1) 1986年(昭和61年)

          私は大宮操車場が機能を廃止した2年後の1986年(昭和61年)10月、大原橋(今の新都心大橋)から大宮方面に向かって4枚
          の写真を撮った。大宮に向かって左から右に移動しながら撮った。

           1986年(昭和61年)10月左  1986年(昭和61年)10月左中  1986年(昭和61年)10月右中  1986年(昭和61年)10月右
           1986年大原橋から 1986年大原橋から 1986年大原橋から 1986年大原橋から

          (2) 1989年(平成元年)と1990年(平成2年)

大宮操車場メモリアルポケットパーク 八幡通りをさいたまスーパーアリーナの方に行くと、埼京線・新
幹線ガード手前の道路右側に大宮操車場メモリアルポケット
パークがある。
そこの案内板には“ここに掲示しました絵画は、国鉄大宮操車
場跡地が「さいたま新都心」へと変貌していく様を17年間にわ
たって見つめ続けてきた、さいたま市在住の画家「秋山静子」
さんが描いた油絵を複写したものです。”
“左側の絵は、平成元年に上落合のこの付近にあったビルか
ら大宮操車場の中央部を中心に展望した6.5mの大パノラマで
全て実物大です。視界の角度は200度で、北はソニックシティ
で南はJRの住宅団地が見えます。レールや枕木も片付けら
れ、リサイクルできない貨物は解体されたそうです。”と書いて
ある。
私はこの左側の絵を4分割してデジカメに収め、かぶった部分
をソフトでトリミングしたうえで、もう一度結合した。
下の横長の写真がそれだ。3ヶ所のつなぎ目にズレが出ている
が、何分実物は6.5mなのでこれが限度だった。

           画家「秋山静子」作品油絵の複写

          この絵が描かれた平成元年の大宮操車場を私は大原橋から2枚写真に撮っている。
           1989年(平成元年)4月                        1989年(平成元年)4月
           1989年大原橋から 1989年大原橋から
 
          また大宮ソニックシティピルからも撮った。さらに翌平成2年再度大原橋から撮った。
           1989年(平成元年)5月                        1990年(平成2年)4月
           1989年ソニックシティピルから 1990年大原橋から

          大原橋は2009年(平成21年)新都心大橋に生まれ変わった。2010年(平成22年)3月新都心大橋から大宮方面を撮った。
           2010年新都心大橋から 2010年新都心大橋から 2010年新都心大橋から

          (3) 1991年(平成3年)

          さいたま新都心「けやきひろば」に大宮操車場のモニュメントがあり、銅板に昭和55年の大宮操車場の航空写真が焼いてある。
           モニュメント モニュメント モニュメント
 
          この写真には大原橋が写っている。大原橋は今は新都心大橋に架け替っているが、私はこの大原橋がまだ存在していた平成
          3年、大原橋の西の袂で、北面を4枚に分割してパノラマ的に写真を撮った。
           1991年(平成3年)西      1991年(平成3年)北西     1991年(平成3年)北東     1991年(平成3年)東
           平成3年大原橋の袂から 平成3年大原橋の袂から 平成3年大原橋の袂から 平成3年大原橋の袂から

モニュメント
このころになると大宮操車場跡地の撤去工事はかなり進ん
でいる。
西方面の写真には、のこぎり形の工場屋根が写っている。
左の写真は「けやきひろば」のモニュメント写真の大原橋
付近のアップだが、のこぎり形の屋根がよく写っている。
当時の地図でここが日本信号だったことがわかる。

          1991年(平成3年)の4枚の写真のうち、右端の写真には大原橋の欄干と橋の一部が写っている。年月が経過して、2006年(平
          成18年)4月、大原橋は解体途中だった。右下の写真には欄干が見えている。
           2006年(平成18年)4月                        2006年(平成18年)4月
           2006年大原橋解体中 2006年大原橋解体中

          この欄干は今も同じ場所に残っている。下の写真右は線路の向こう側から見たところだ。
           2010年大原橋欄干 2010年大原橋欄干 2010年大原橋西壁

          これでわかるように新都心大橋は大原橋と同じ位置に架け替えられたのではなく、隣接する位置に架け替えられたことがわか
          る。大原橋の欄干が元の位置に残っているので、平成3年に写真を撮った位置が特定できる。
          19年後も大原橋の西の袂で、北面を4枚に分割してパノラマ的に写真を撮ってみた。風景はあまりにも変貌してしまった。
           2010年(平成22年)西      2010年(平成22年)北西     2010年(平成22年)北東     2010年(平成22年)東
           平成22年旧大原橋の袂から 平成22年旧大原橋の袂から 平成22年旧大原橋の袂から 平成22年旧大原橋の袂から

          北方面は日本郵政ビルに遮られて、平成3年の風景を偲ぶことは出来ない。西方面と東方面は 日本郵政ビルの左右に出て見
          れば、平成3年の風景と見比べることができる。
           平成22年日本郵政ビル西から 平成22年日本郵政ビル東から

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